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思考が機能していないと感じる時がある。一年二年前よりも明らかに思考が鈍くなっている。もうどうでもいい、と呟くことが増えた。本当に何もかもがどうでもいいわけでもないが自分の意思などでどうにもならないことがどうにかなるわけでもないので結果的にどうでもいいというところに行き着く。何も考えたくないといったこと以前に何かについて考えること自体も困難になりつつある。
不可能なことがあったり知識を持っていない人間は他人から嘲笑の対象にされる。嘲笑されないためにはあらゆることを一人でも完璧にこなせなければならないし、あらゆることについて知っていなければならない、と理解していながら不可能なことも持っていない知識も多すぎるので何もせずに自分を嘲笑する他人がいない場所に篭りたい。外に出るのは疲れた。
なんでも他人からどう見えるか、どう思われるかこそがすべてであり自分の感性など他人の価値観という絶対的な基準の前には無価値、無意味だ。いついかなる時であっても「自己に否定的な他人の視点、価値観、評価」は「自己とそれに肯定的な人間の感性、都合、思想信条、その他あらゆるもの」に勝るものであり逆であってはならない。どれだけ自分の感性が素晴らしいと認めたものでも、他人が無価値と断じたなら無価値にならざるを得ないし、それを避けようとすれば互いに肯定的な人間だけで集団を構築する以外になく、仮にそんな集団を構築できたとしても外部から駄サイクルなどと叩かれるのがオチだ。故にあたしがほんのわずかな幸福感さえも得ることを許さない、というのが他人の意思である限りあたしは幸福であってはならないのだろう。傷つきたくない、嘲笑されたくない、満足や安らぎを得たいとするあたし個人の意思は他人の意思という揺らぐことのない絶対的な価値観の前には無意味だ。
ネット上の他人からは不要な罪悪感を植え付けさせられることばかりで、本心では申し訳ないなどと微塵も思っていないような相手にさえそういった罪悪感が生じ数ヶ月、あるいは数年単位で根付いてしまう。俺は悪くねえ、と日常的に自己暗示をかけ続けでもしなければ消えないのだろうし消えたところでやはり自分の中で罪悪感を消したところで無意味というところに行きつく。結局のところあたしが行うあらゆる行為は無意味というところに集約される。無意味であることを理解していながら無意味を重ねるので結局は何にもならないしあたし自身も未だ何者でもない。このまま透明な存在として消えてゆく以外に道はないのだろう